ドイツの大学の授業ってどんなん?

日本にいた時、私は人々が大学に行く目的は『有名な大学を卒業していれば就職に役立つから』だと思っていた。でもドイツの大学に行ってその見方は大きく変わった。

大学は学びたいものがある人がさらにそれについて勉強したり研究したりする機会を得れる場であった!

 生徒がただ座って先生の話をひたすら聞く『講義』もあるが、少人数で集まってする討議をし合う『セミナー』もある。セミナーではど自分が学んだ事ではなく、学んだ事に対する自分の意見を聞かれる。参考書をたくさん読まされるが決して答え合わせの場なのではない。教授などが定理した理論に自分は同意するのか、反対なのか、反対ならなぜそう思うのか、それを裏付ける証拠は何か、何か新しい発見があったかなどを問われる場。簡単に言えば、この定理や仮説を鵜呑みにせずもっといい意見があればどんどん言ってさらに勝る定義を考えろっていう場。

ベテランの教授ほど違う意見に喜んで耳を傾け、どんな意見も見下げない。そういう教授は生徒の宗教や国籍に対して差別する事が少ない。大学の教授は権威があるだけに教授の意見が鶴の一声になるイメージがあったが、逆だった。ベテランの教授ほど彼らは一番の『生徒』であった。彼らは自分の教えてることがとても大好きで、自分の専門知識を他の生徒の意見を聞くことによってさらに広げたいと思っている。まさにオタク!そして生徒が研究したいテーマがあればそれをさらに掘り起こし、とことん研究するように促す。ドイツの大学はほぼ無料に等しい。貧しい家庭に生まれても勉強したいものがある人がそれを研究する機会が与えられている。

大学は本当に’University’だった!

Universeは『全体』という意味があるように、大学は専門学校と違って自分の学んでいる専攻科目以外のものからも学ばなきゃいけない仕組みになっている。それによってさらに万物の知識を増やし、世の中の全体像が見えるよう教育される。めんどくさいと思ってテストがない楽な科目だけ取った。でも後にそれら全く自分の専攻科目と関係のないように見える科目の知識が、結局自分の専攻科目に良いアイディアを与えたり、理解を深めるのに役立ったりする事があった。例えば私の専攻はユーゴスラビア文学だが、ビクトリア朝時代の英国の歴史、映画学、演劇学などを取ってみた。一見どれもユーゴスラビア文学と関係ないように見えるがそれがそうでもない。以下の構図参照。

ビクトリア朝時代に万国博覧会が始まる→後に行われたパリ万博において江戸幕府が葛飾北斎らの浮世絵などを出品→ヨーロッパに東洋文化が伝わる→パリに東洋文化の資料集まる→第一次世界対戦で反政府、反ヨーロッパ文化運動が高まりアバンギャルンド運動が始まりヨーロッパの芸術家たち東洋の芸術に目を向ける→世界大戦でパリに亡命したセルビア人の詩人が国立図書館で日本の和歌について資料集める→セルビアで初めてので和歌を紹介した本を発表。→バルカンに和歌の知識をもたらす。。。

とまあこんな感じで結局歴史も芸術も全てどこからしら繋がっている。そして単位を取る為だけに適当に取った科目でも意外に興味深く、自分の知らない自分の『興味のある事』をを発見できる。

私は大学に行くことを決して奨めたいわけではない。でもいくつになっても学び続けることは奨めたい。大学に行った収穫は確かにあった。それは『学び方』を学んだことだ。もともと馬鹿に生まれるものはいなく誰でも努力して勉強すれば時間はかかるものの諦めなければいつか理解できるようになる日が来ることを知った。『馬鹿なので無理』と思っていた自分に学ぶ意欲と学ぶ自信を回復させてもらったことは二番目に得た収穫と言える。

前に視覚障害者の講演でこんな事を聞いた事がある。視覚障害者の人にとっての一番の障害は障害物ではなく、視覚障害者のやろうとする事を『危ない』とか『できないだろう』と勝手に判断し、できる事をやめさせようとする人たちだ、みたいな事を言っていた。この原則は実際誰にでも当てはまると思う。何かを学ぶ時に克服すべき真の障害は、学んでいるもの自体の難しさではなく、学び続ける事を「無理だよ」と諦めさせようとする周りの人たちの言動や自分自身の態度なのだろう。

【ドイツ人ってどんな性格?】

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